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復刻事業

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代表的な建築

Frank Lloyd Wright

1867-1957

フランク・ロイド・ライトは、アメリカに生を受けた20世紀を代表する建築家です。また、ル・コルビュジエ、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエと並ぶ3大巨匠建築家の一人としても知られます。生涯800以上の住宅、公共建築をてがけ、日本でも旧帝国ホテルを始めとする作品で、近代建築の発展、西洋建築の普及に大いに貢献した建築家として知られています。
ライトは建築作品だけでなく、それに付随するインテリア、家具、ファブリック、照明、テーブルウエアもデザインしており、いずれも建築に劣らぬ優れた芸術作品として高い評価を受けています。

ライトとトータルデザイン

バイオグラフィー|タリアセン・ウエストのチェア
バイオグラフィー|タリアセン・ウエストのデスク

フランク・ロイド・ライトは建築を建物単体ではなく、調度なども含め総合的に扱った最初期の建築家です。 このことはフランク・ロイド・ライトの仕事のはじまりから大きな課題となりました。
何故なら、ライトが自身の20世紀的な建築に調和する家具を期待しても、施主が持ち込むのはビクトリア時代の古い装飾的な家具であるということが、しばしば起こったからです。そこでライトは、設計した建築の中に旧世代の家が入りこまないように、自ら作り付けの家具を制作しました。例えば本棚からサイドボード、チェアやデスクに至るまで、その中でどのように生活してほしいかを考え総合的につくりこんだのです。

ライトと照明器具

バイオグラフィー|ライト建築での天窓の例

▲ 自然光を豊かに取り込む天窓の設計

バイオグラフィー|ロビー邸の照明を復刻したロビーコレクションのウォール照明

▲ 「サンライト」の設計はロビー邸の照明を彷彿とさせます

このことは家具だけでなく照明器具についでも同様でした。ライトにとって光は、自然光であれ人工光であれ、建築と同様重要な要素でした。そこで彼は照明手法の開発とランプそのものの設計を始めたのです。

ライトが初めて設計した照明は自宅のためのものです。天井にグリルをつくり、それを少し下げた内側に照明をつけて光が直接目に入らないようにしたもので、柔かな照明効果が生まれました。ライトはこの照明を「ムーンライト」と名づけました。さらに同じ頃デザインされた器具は、シンプルな木のフレームで囲われた地球儀のような造りで「サンライト」と呼ばれました。

ライトはこれら2つのデザインの経験を通して、建築空間における照明のあり方を探っていきました。照明を建物の一部としてとらえてゆく方向に発展していったのです。

照明についてライトはある詩的な文章を残しています。

ますます光は建築を美しくするものとなってきた。それは建築家への祝福を現しているかのようだ。光と協力して仕事を進めてゆくのだということをわからせる。拡散し、反射し、反映する光は、そのもの自身の存在であり、影はその有難みをわからせてくれる。

ライトの照明はクライアントごと、特別に制作されましたが、成功例はしばしば再利用されました。例えばマーメーハウスのデザインはロビーハウスにも使われました。タリアセン2のもととなったランプも、もともと自邸のために創ったものでしたが、クライアントの要望により再使用されました。

直線構成のデザインと自然へのまなざし

バイオグラフィー|草木と山に囲まれたタリアセン・ウエスト

▲ ライトの建築は多くが自然と有機的につながっています

バイオグラフィー|周囲の環境と調和したストラー邸の様子

家の中のすべてのオブジェに直線を使ってデザインするのがライトの特徴です。YAMAGIWAが復刻したランプもすべて、デザインに直線が取り入れられたものです。直線のデザインと聞くと無機質なイメージがあるかもしれませんが、ライトの建築は多くが自然や環境とつながる有機的な側面を持っています。そんなライトの自然への眼差しを感じさせるエピソードがあります。

財団スタッフはある時ライトに「何故このように直線を選ぶのか」と質問しました。ライトは、1895 - 1900年頃、シカゴ近郊の製材所や木工所を訪れた際、国有林から切り出した木材の様々な破片が落ちているのを見て心を傷めた経験を語ったそうです。これは当時の曲線を多様したデザインに木材のロスが多く、資源の無駄使いとなっていたことが原因でした。

ライトの生涯

バイオグラフィー|年表PDFの画像

▲ フランク・ロイド・ライトの略歴。クリックでPDFが開きます

黎明期:ライト誕生からキャリアのスタート

1867 - 1889年

バイオグラフィー|ライト最初の自邸の公開風景

フランク・ロイド・ライトは、1867年にアメリカ中西部ウィスコンシン州で生まれました。青年期には製図工として働いていましたが、1887年、20歳のときに建築の仕事を志して旅立ちます。あてもないまま訪れたシカゴでしたが、数日をかけ建築事務所で職を得ました。

その後、彼はアメリカ近代建築の先駆者とも言われたルイス・サリヴァン率いる建築事務所に移ります。当時の建築界では、大規模なビル設計と住宅設計は分業されており、サリヴァンが主にビルを担当する一方で、住宅の依頼が若きライトに任せられることになりました。

こうした経験を経て1889年、ライトは22歳でイリノイ州オークパークに自邸を建て、19歳のキャサリン・トビンと結婚します。この自邸は、暖炉を中心に据え、空間を仕切らずにつなぐ構成がとられました。他にも、家具と空間を一体で設計する考え方など、後のプレーリースタイル(草原様式)へとつながる要素がすでに現れています。

この時期の主な作品
自邸(1889)、ウィンズロー邸(1893)

バイオグラフィー|ライト建築に見られる暖炉

ライトの建築にみる人のつながり

1885年、ライトの父ウィリアムは母アンナと離婚し、まだ十代だったライトを残して家を去りました。その後、ライトは自邸を設計する際、住宅の中心に暖炉を据えています。
暖炉は人々を温かく迎え入れ、家族や仲間が集う象徴的な場所として、彼の建築思想における重要な位置を占めることになります。この「人をつなぐ場」としての暖炉の存在は、後の作品にも一貫して見られる特徴となりました。

第1期:プレーリーハウスの時代

1889 - 1910年

バイオグラフィー|デーナ・トーマス邸の図面

Dana-Thomas House / The Frank Lloyd Wright Foundation Archives. (The Museum of Modern Art | Avery Architectural & Fine Arts Library, Columbia University, NY)

1893年、ライトはルイス・サリヴァンの建築事務所を退職し、独立して自身の設計事務所を開きました。これは事務所に無断で、私的に住宅設計を引き受けていたことがきっかけになったとされています。この時期のライトは、複数の子どもを抱え、私生活では衣服や乗り物などに強いこだわりを見せていたとも伝えられています。

バイオグラフィー|ロビー邸の長い庇
バイオグラフィー|デーナ・トーマス邸の内部写真

こうした状況にあっても、ライトのもとには富裕層の邸宅が多く依頼されることになります。もともと事務所の住宅設計は実質的にライトが一手に引き受けていたこともあり、退職後自力で仕事を受ける基盤ができていました。この頃から1910年頃にわたるライトの代表的建築スタイルが “プレーリースタイル” です。

その特徴が、横に広がる構造の強調。勾配の緩い(時には水平な)屋根からは軒が長く伸び、高窓の下からは壁が取り払われ、外観が形成されています。また、内部は屋根裏や地下室を廃し、間仕切りやドアを最小限にすることで天井高を抑え、あらゆる用途への柔軟性を持たせた空間となっています。これらの建築的選択はすべて、ライトの「室内と自然を一体化する」住まいの理念に合致しています。

ライトは、大地と平行に並べることで、建築と自然が心理的にも視覚的にも一体になると考えていました。高く立ち上がるのではなく、水平に広がることで、地形の延長として風景と調和する。彼にとって建築とは、自然を包摂し、日常の空間に取り込むための“装置”でもあったのです。

プレーリースタイルの邸宅は評判を呼び、特に中西部(イリノイ州周辺)で富裕層や実業家など地位ある人物からの依頼が舞い込みました。デーナ・トーマス邸の依頼者、スーザン・ローレンス・デーナもその一人です。

この時期の主な作品
デーナ・トーマス邸(1902-1904)、クーンレイ・プレイハウス(1907)、ボイントン邸(1907)、ロビー邸(1909)

バイオグラフィー|デーナ・トーマス邸

デーナ・トーマス邸 侵入事件

デーナ・トーマス邸完成後、家主が不在の間にライトが侵入していた――そんな逸話が残されています。しかも彼は、家具の位置を動かし、スーザン・ローレンス・デイナが仕立てたカーテンを外してしまっていたとも伝えられています。これは建築を「芸術」として完成させることへの執着と、住まい方までも設計の一部として扱った、ライトらしい逸脱といえるかもしれません。

バイオグラフィー|ロビー邸

ロビー邸解体への抗議運動

ロビー邸は、その歴史的価値にもかかわらず1950年代に解体の危機に直面しましたが、ライト本人が公開声明を通じて保存を主張しました。彼はこの住宅を単なる仕事の成果ではなく、「アメリカ建築の礎」と呼び、文化的資産として守ろうとしたのです。
この姿勢は、ライトが自身の設計に対してただ関与するだけでなく、作品に責任を持ち、後世に伝え残すべきものと考えていたことを表しています。

第2期:海外活動・実験的設計の時代

1911 - 1935年

バイオグラフィー|タリアセン

ライトは1900年代初頭、プレーリースタイルの成功を受けて一躍人気建築家となりますが、1909年に私生活の大きな転機を迎えます。ライトはこの頃、かねてより親交のあった住宅の施主メイマ・チェニーとともに渡欧します。1889年に結婚した最初の妻キャサリン・トビンとの間には6人の子どもがいましたが、離婚は成立しておらず、社会的には不倫と見なされたこの行動は世間の非難を招きました。

渡欧中のライトは、ベルリンのヴァスムート社と協力し、自身の建築作品集『ヴァスムート作品集』(1910年)を編纂します。これは彼の作品をヨーロッパの建築界に紹介する画期的な書物となり、後のモダニズム建築に少なからぬ影響を与えることになりました。ただし、この渡欧中および帰国後しばらくの期間、建築家としての活動は一時的に停滞します。

ライトは帰国後、自身の故郷ウィスコンシン州スプリング・グリーンに新たな住まい兼アトリエ「タリアセン」を築き、活動の拠点とします。この時期、アメリカ国内では世間の冷たい視線や依頼の減少に苦しむ一方で、設計活動を細々と続け、特に南カリフォルニアでは数件の住宅設計を手がける機会を得ました。

この「停滞期」は、かつてはライトの建築家人生における低迷期と見なされてきましたが、現在では再評価が進んでいます。渡欧経験を通じた建築思想の深化や、帝国ホテル(1923年竣工)や自由学園明日館(1921年)のように、国外での創作活動を通じて新しい建築言語を模索した時期でもありました。特に日本における活動は、異文化と向き合いながら空間構成や構造設計に新たなアプローチを導入した例として、近年注目されています。

この時期の主な作品
タリアセン(1911)、アメリカン・システムビルト・ハウス(1915頃〜)、帝国ホテル(旧館)(1919–1923)、自由学園 明日館(1921)、山邑邸(現・ヨドコウ迎賓館)(1924)

バイオグラフィー|タリアセンの内部写真
バイオグラフィー|タリアセンの外観
バイオグラフィー|復刻照明タリアセンシリーズのペンダントライト
バイオグラフィー|タリアセン内の一室にディナーテーブルが並び天井からタリアセン・ペンダントが設置されている様子

▲フロアライト「タリアセン2」の原型となった「タリアセン ペンダント」も、再建の際に造られたもの

タリアセンの悲劇と再生

1914年8月、ライトの拠点タリアセンで火災と襲撃事件が発生し、7人が命を落としました。
ライト自身は出張中で難を逃れましたが、自邸兼アトリエは焼失し、大きな衝撃を受けます。

しかし彼はその悲しみの中で再び立ち上がり、翌年には新たなタリアセン(タリアセンII)の再建に着手しました。
再建は単なる復元ではなく、「創造と生活の場」を取り戻すための試みでもありました。
新しい建物では、元のデザインを踏襲しながらも構成や意匠が見直され、後の建築思想に影響を与える要素が芽生えたといわれています。

再建後のタリアセンは再び火災に見舞われながらも、そのたびに蘇り、ライトの設計活動と教育の中心として発展しました。
破壊と再生を繰り返したこの場所は、ライトにとって創造の原点であり続けたのです。

バイオグラフィー|ヨドコウ迎賓館外観

▲ヨドコウ迎賓館(1924)

バイオグラフィー|自由学園明日館の飾り窓の様子

▲自由学園 明日館(1921)

日本でのライト

1905年、初めて日本に行って以来、ライトは日本美術を収集し、日本文化を敬愛しました。その気に入りようは、1913年にヨーロッパに行った際、日本と比較してがっかりしたという逸話が残っている程です。それと前後して、日本の建築界でもライトは徐々に注目され始め、苦難の時期だった1917年頃には帝国ホテル(旧館)建て替えを担う大役として、白羽の矢が立つことになります。

翌年の1918年には帝国ホテルと正式契約。これに伴い日本に長期滞在が始まります。残念ながら工期の遅れに起因する経営陣との衝突から、ライトは帝国ホテルの完成を待たず日本を離れることになりますが、仕事は日本での弟子だった遠藤新に引き継がれ、1923年に帝国ホテル新館が完成。関東大震災でも倒壊しなかったことで、ライト建築の耐震性と合理的な構造が日本国内でも注目されるようになります。
遠藤新は他にもライトの仕事を受け継ぎ、1921年には自由学園 明日館を、1924年には山邑邸(現・ヨドコウ迎賓館)を完成させ、日本建築界にモダン建築の大きな影響を与えました。

日本のクラフトマンシップに衝撃を受ける

ライトは帝国ホテルの建築作業中に日本の天才的な職人芸を目の当たりにして魅了されたようです。帝国ホテルでは大谷石という柔かな石材が彫られ、スチールとともに建築に使われましたが、その際の出来事をライトは後年まで鮮明に覚えていました。

「朝、デザインしたものが午後になると職人が彫り上げて現実のものとなって出来てくる。それはまるで飢えている孤児がパン屋でなんでも食べて良いと言われたようなもので、私は次々にデザインをした。そしてそれが一つの欠点もなくつくられたのだ」

こうした大谷石を使った彫刻的な要素の連続は、ストラー邸などで採用されるテキスタイルブロック工法として発展していくことになります。

第3期:復活と再評価の時代

1936 - 1959年

バイオグラフィー|落水荘外観

不倫による威信の失墜、凄惨な事件による家族や拠点の喪失など多くの苦難に見舞われた第2期は、1939年の「カウフマン邸」とともに終わりを告げることになります。俗に「落水荘」と呼ばれるこの邸宅は滝上に建てられ、自然と完全に一体となった「有機的建築」そのものでした。落水荘は名実ともにライトのもっとも広く知られた傑作のひとつとなり、70歳になろうとしていたライトに第二の最盛期をもたらすことになります。第三期に至るまでには、大恐慌の影響による一時的な停滞の時期もありました。しかしその成功の背後には、日本をはじめとする各地での長年の試行錯誤があり、この時期は彼の創作が再び花開き、改めて高く評価される時代となりました。

この時期の主な作品
ジョンソン・ワックス・ビルディング(1936-1939)、カウフマン邸(1936-1939)、ローゼンバウム邸(1939)、ストラー邸(1950)、タリアセン・ウエスト(1937-1959)、シュワルツ邸(1951)、ベス・ショーロム・シナゴーグ(1959)、グッゲンハイム美術館(1959)

バイオグラフィー|日本でのライト建築の代表例

日本での活動の成果

ライトの第2期と呼ばれる時代はしばしば停滞期や暗黒期と呼ばれますが、帝国ホテルや自由学園をはじめとした日本での仕事は、ライトの建築に新たな地平をもたらしました。
例えば大きくせり出した片持ち梁(カンチレバー)は帝国ホテルで。建物が自然の地形と一体化している様子は山邑邸を彷彿とさせます。
西洋的な史観から見れば「停滞」と片付けられがちな時代も、日本に住む私達の視点を通せば、その後の飛躍のための助走とも言える時代であることがわかります。

バイオグラフィー|ユーソニアン住宅の代表例

Curtesy of the Florence Arts and Museums. Christy Britten Photographer

ユーソニアン住宅

1929年の世界恐慌により、多くのアメリカ国民が生活に困窮するようになります。この状況を受け、ライトは「手頃な価格で快適に暮らせる住宅」の必要性を強く感じ、1930年代以降、「ユーソニアン住宅(Usonian House)」の設計に力を注ぐようになります。
「ユーソニアン(Usonian)」という語は、もともと小説家サミュエル・バトラーが「アメリカ合衆国(United States of North America)」に由来して造語したもので、ライトはこの言葉に“統一”や“理想的な連邦”の響きを見出して好みました。彼にとって、ユーソニアン住宅とは単なる住宅の形式ではなく、すべての人々に開かれたアメリカ社会の象徴でもありました。

また、ユーソニアン住宅では、コスト削減と合理化のため以下のような工夫が取り入れられました

  • 規格化された部材(木材やコンクリートブロック)の使用
  • 建具・収納・家具までを含む統一的な設計
  • 電気配線などの計画的設計による現場作業の簡素化

これらは「プレハブ住宅」の先駆的発想とも言われ、現代のモダン住宅における工業化・標準化の源流のひとつとして評価されています。

バイオグラフィー|タリアセン・ウエストでのライトの様子
バイオグラフィー|タリアセン・ウエストでのライトの様子
バイオグラフィー|タリアセン・ウエストでのライトの様子
バイオグラフィー|タリアセン・ウエストでのライトの様子

The Frank Lloyd Wright Foundation Archives (The Museum of Modern Art | Avery Architectural & Fine Arts Library, Columbia University, New York) All rights reserved.

タリアセン・ウエストでの共同生活と教育の実践

1937年、ライトはアリゾナ州スコッツデール近郊に冬季の活動拠点「タリアセン・ウエスト」を設立しました。ここは単なる建築スタジオではなく、1932年から始められていた「タリアセン・フェローシップ(建築塾)」の理念を実践する共同生活と教育の場でもありました。門弟たちは建築の設計や施工だけでなく、農作業、料理、清掃、演劇、音楽といった日々の暮らしに関わるあらゆる活動をライトと共に行い、建築を「生き方」として体得することを求められました。タリアセン・ウエストの建物群もまた、門弟たちの手によって建設され、自然素材と地域の気候に応じた設計が随所に取り入れられました。こうした実践を通じて、ライトは建築教育を単なる図面や技術の習得にとどまらず、人間と自然、共同体、芸術の全体性の中で捉えようとしていたのです。

グッゲンハイム美術館と「有機的建築」の完成

バイオグラフィー|グッゲンハイム美術館外観

グッゲンハイム美術館(ニューヨーク、1959年竣工)は、フランク・ロイド・ライトの建築哲学「有機的建築」の集大成として位置づけられています。この建築はライトが晩年16年をかけて構想・設計したもので、彼にとって生涯最後の作品のひとつとなりました。依頼主は近代美術のコレクターであったソロモン・R・グッゲンハイム財団であり、従来の美術館建築とは一線を画す、革新的な空間体験が目指されました。

バイオグラフィー|グッゲンハイム美術館内観

最大の特徴は、螺旋状に上昇するスロープ状の展示空間で、訪問者はゆるやかにスロープを下りながら作品を鑑賞する構造となっています。この流れるような空間構成は、ライトがかねてより唱えてきた「空間の連続性」「自然な動線」「人の動きと空間の調和」といった有機的建築の核心を体現しています。
また、曲線を基調としたフォルムや、建物と自然光の関係、周囲の都市空間との対比においても、グッゲンハイムはライトの思考の結晶といえます。とりわけマンハッタンの硬直したグリッド街区にあって、白く滑らかな曲面で構成された建物は、都市の秩序に対する自然からの返答のような存在感を放ちます。

ライトはこの建築について、「建築と絵画がこれまでの芸術世界に存在したことのない、美しい交響曲をなすようにしたかった」と語っており、直線的で階層的な従来の美術館に代わる「生命感のある空間」を提示しようとしました。彼がかつてプレーリースタイル様式で用いた水平性や、落水荘で追求した自然との融合の理念が、都市の美術館という場において独自のかたちで展開されたものが、まさにこのグッゲンハイム美術館です。
竣工の半年前、ライトは亡くなりましたが、この建築は彼の理念が都市空間に刻み込まれた象徴として、世界的に高く評価されています。

バイオグラフィー|グッゲンハイム美術館内観

建築群の世界遺産登録

バイオグラフィー|ユニティー・テンプル外観
バイオグラフィー|ロビー邸外観
バイオグラフィー|タリアセン・ウエスト外観
バイオグラフィー|タリアセン外観

没後60年となる2019年、フランク・ロイド・ライトの8つの建築作品が「フランク・ロイド・ライトの20世紀建築作品群」として世界遺産に登録されました。対象となったのは以下の8つの建築です。

  • ユニティー・テンプル(イリノイ州オークパーク)
  • フレデリック・C・ロビー邸(イリノイ州シカゴ)
  • タリアセン(ウィスコンシン州スプリンググリーン)
  • バーンズドール邸・ホリーホック邸(カリフォルニア州ロサンゼルス)
  • 落水荘(ペンシルベニア州ミル・ラン)
  • ハーバート・キャサリン・ジェイコブス邸(ウィスコンシン州マディソン)
  • タリアセン・ウエスト(アリゾナ州スコッツデール)
  • グッゲンハイム美術館(ニューヨーク州ニューヨーク)

20世紀を通してライトの提唱した「有機的建築」は、自然そのものを模倣するのではなく、人間の暮らしと自然環境を一体として設計する建築原理の革新でした。その思想はヨーロッパをはじめ世界のモダン建築に影響を与え、現代でもBIGによる「ハンガリー自然史博物館」に見られるような「環境と人が緩やかにつながる建築」の考え方にもその足跡を見出すことができます。

世界遺産への登録も、こうした建築の潮流を一変させた大きな功績を評価するもので、ライトが築いた理念が今なお普遍的価値を持つことを国際的に認めた証しでもあります。彼の歩みは、一人の建築家という枠を超えて時代を変えた稀有な存在であったことを、あらためて私たちに教えてくれます。

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